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朝鮮ドリーム歴史観

最近「太閤立志伝V」をやっているので、いい機会だから読み比べてみた。

日本と朝鮮における文禄・慶長の役について

天下人となった豊臣秀吉が行った中国(明)遠征に伴う朝鮮出兵。
ま、太閤立志伝でここまでシナリオあるとは思えないけどね!


■文禄の役

***朝鮮サイド***

朝鮮政府は、はじめは倭軍の攻勢におされて、宣祖が漢陽を離れて平壌、義州へ避難するなど、守勢を免れることはできなかった。しかし水軍と義兵の勝利で戦況が逆転し、倭軍を撃退するに至った。
戦争が長期化して朝鮮は明に援軍を要請し、明軍が戦争に参加した。朝・明連合軍は平壌城を回復して倭軍を南に追い出した。このとき権慄は幸州山城で倭軍を大いに打ち破った。

***日本サイド***

戦力に自信のあった日本軍は上陸後も戦国の常識に従って何度も李氏朝鮮を交渉により服属させようと試みており、朝鮮の武力制圧が既定路線であるかのような認識は間違いである。戦術レベルに於いても攻城戦の開始前と落城寸前の場面で降伏勧告を行っており、自軍被害も低減できる無血開城の交渉を行っている。しかし異文化間の戦争のため明・朝鮮の指揮官は民衆を巻き込んだ籠城を最後まで行い、守将の降伏による無血開城よりも民衆を巻き込んだ落城を選ぶケースが多かった。

---中略

日本軍の進撃が平壌に迫ると宣祖は遼東との国境である北端の平安道義州へと逃亡し、冊封に基づいて明に救援を要請するが、その間にさらに北上した日本の第1軍と第3軍は平壌を占領して進撃を停止した

---中略

日本軍は北西部の平安道の平壌より北方と全羅道を除く朝鮮全土を制圧し、加藤清正の一隊は威力偵察のため国境を越えて明領へ攻め入った
このとき朝鮮の民衆は既に王や大臣を見限り、日本軍に協力する者が続出した。



はい、既に相当違いますね!
これは楽しみ

次は大航海時代でも名前が出てくるあの人



■李舜臣と亀甲船

***朝鮮サイド***

倭軍の侵入の1年前に、全羅左水使に赴任した李舜臣は、倭軍の侵入に備えて板屋船と亀甲船をつくり、戦艦と武器を整備し、水軍を訓練し、軍糧米を貯蔵した。
彼は倭軍が釜山に上陸すると、80余隻の船をひきいて玉浦で最初の勝利をおさめた。つづいて、泗川、唐浦、唐項浦等でも大勝した。ついに閑山島の大勝で南海の制海権を掌握し、穀倉地帯の全羅道地方を守り、倭軍の水陸併進作戦を挫折させた。

---ここから慶長の役

3年間にわたった会談は決裂し、再び倭軍は侵入してきれた。これ対して朝鮮軍と明軍は倭軍が北上するのを稷稜山で防ぎ、南方へ撃退した。このとき李舜臣は倭軍を嶋梁へ誘導して一大反撃を加え、大勝利をおさめた。
陸地と海で再び惨敗を喫した倭軍は、次第に戦意を喪失して敗走しはじめた。
朝鮮水軍は逃走する倭船数百隻を露梁の沖でさえぎり、最後の一撃を加えた。李舜臣はこの最後の戦闘で壮烈な戦死をとげた


***日本サイド***

日本後方部隊のうち海岸移動を行っていた船団に対して李舜臣率いる朝鮮水軍が4月と5月の二回の出撃で積極的に攻撃を加え、備えのない日本船団が被害を受けた

豊臣秀吉は陸戦部隊や後方で輸送任務にあたっていた部隊から急遽水軍を編成して対抗した。
水軍は脇坂安治の抜け駆けが閑山島海戦にて敗北、続いて援護のために進出した加藤嘉明と九鬼義隆の水軍が李舜臣の泊地攻撃に耐えかねて後退すると、豊臣秀吉は海戦の不利を悟って積極的な出撃戦術から消極的な水陸共同防御戦術へ方針を変更
長年の倭冦対策で船体破壊のための遠戦指向の朝鮮水軍に対して、船員制圧のための近戦指向の日本水軍では装備や戦術の落差もあって正面衝突の海戦をすると日本水軍が不利であったことによる。
水陸共同防御戦術は有効に機能し、以降の李舜臣の攻撃は被害が増大し戦果が挙がらず精彩を欠くようになり、出撃も滞る

---ここから慶長の役

李氏朝鮮王朝では釜山に集結中の日本軍を朝鮮水軍で攻撃するように命令したが、度重なる命令無視のために三道水軍統制使の李舜臣は罷免され、後任には元均が登用された
朝鮮水軍を引き継いだ元均も攻撃を渋ったが、ついに7月に出撃を行った。しかし日本側の防御によって攻撃は失敗し、帰路に巨済島で停泊していたところを水陸から攻撃され、朝鮮水軍は幹部指揮官の戦死と共に壊滅的打撃を被った。

---中略

(1597年)9月には南原城から南下した後に西進した日本水軍の先鋒を三道水軍統制使に返り咲いた李舜臣が鳴梁海戦で破った。しかし、日本軍により全羅道西岸が制圧されると朝鮮水軍は制海権を失い李舜臣も全羅道北端まで後退し日本水軍は全羅道西岸まで進出した。

---中略

撤退命令を受領した小西行長は、(1598年)11月明・朝鮮の陸水諸将と交渉や買収で無血撤退の約束を取り付けるが実際には明・朝鮮水軍は後退せずに海上封鎖を継続しており、海路撤退を妨害した。
小西軍の脱出が阻まれてていることが確認されると泗川から撤退してきた島津義弘の他、立花宗茂、寺沢正成、宗義智らの諸将は救援に向かうために水軍を編成して進撃した。島津の救援水軍が近づくのを知ると明・朝鮮水軍は順天の海上封鎖を解いて迎撃を行った。
この露梁海戦で島津水軍は苦戦したが、明・朝鮮も明水軍の副将、鄧子龍や朝鮮水軍の三道水軍統制使の李舜臣を含む複数の幹部が戦死した。また、明・朝鮮水軍の出撃で順天の海上封鎖が解けたことを知った小西行長は海戦海域を避けて海路脱出に成功している。



名前が残るだけあって、やる事はやってますが
如何せん「せこい」イメージが拭えない

約束したなら邪魔するなよー
しかもその挙句戦死してるし



■義兵

***朝鮮サイド***

倭乱が生じると、全国各地で義兵が立って倭軍とたたかった。義兵は郷土の地理に精通し、郷土の条件にあった戦術と武器で倭軍に大きな打撃を与えた。
郭再祐、趙憲、高敬命、鄭文孚らがひきいる大小の義兵部隊の活躍は大きな成果をおさめた。義兵の輝かしい戦果は、海戦での李舜臣の勝利とともに戦況を変えた。


***日本サイド***

占領各地では義兵の決起が生じ、このため武器・兵糧不足に悩まされた。この義兵は流民も多く、朝鮮の民衆や軍隊も襲う事もあった。漢城に集結して和平交渉を始めていた日本軍だが、本土から釜山までの海路の補給は維持していたが、釜山から漢城までの陸路の治安が悪化して食糧などの補給が滞りがちであったため、加藤清正が捕虜にした李氏朝鮮の二王子の返還と引き替えに釜山周辺の南部へ4月頃までに移陣した。



義兵に夢見すぎ
英雄視するのは分かるけど、味方にも被害が出ていたというのは如何にもありがち

効果としては補給線へのテロ程度




■終戦

***朝鮮サイド***

倭乱でわれわれが勝利をおさめることができたのは、わが民族がもっていた潜在的力量がすぐれていたためである。つまり、官軍次元のわが国防能力は日本に劣っていたが、全国民的次元の国防能力は日本を凌駕した。わが民族は身分の貴賎や男女老若を問わず、文化的な優越感に満たされて自発的な戦闘意識をもっていた。こうした精神力が国防能力に作用して倭軍を撃退させることができる力になった。

***日本サイド***
翌慶長3年(1598年)、蔚山城戦で遺棄死体2万と記録した明・朝鮮軍にも厭戦気分は蔓延し戦線は膠着した。日本では8月に豊臣秀吉が死去し戦役を続ける意義が失われた。

---中略

蔚山、泗川、順天への攻勢を退けた日本軍であったが、既に秀吉は8月に死去しており戦争を継続する意義は失われていた。そこでついに10月15日、秀吉の死は秘匿されたまま五大老による撤退命令が発令された。





あまりの違いに唖然
中国側の資料も確認してみたくなったわ

それよりなにより、教科書にガッツリとウリナラマンセーが書かれてるのは凄過ぎ


ドリーム部の情報源
韓国国定歴史教科書

日本サイドはwikipedia
文禄・慶長の役

  by varelire2 | 2008-10-26 22:20 | 社会・生活 | Comments(0)

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